千代田町会の歴史と現況                                          木口 弘氏作文より転載一部追記)

戦後歴代町会長

初代会長 藤野 隆助 (昭和27年・西暦1952~)

二代会長 海老沢 勉 (昭和53年・西暦1978~)

三代会長 清水 吉右衛門(昭和57年・西暦1982~)

四代会長 中根 秀明(平成4年・西暦1992~)

五代会長 石川 久任郎(平成5年・西暦1993~)

六代会長 鈴木 久雄(平成16年・西暦2004~)

七代会長 木口 弘(平成19年・西暦2007~)

八代会長 関 正行(平成27年・西暦2015~)

町会のあゆみ

 昭和7(1932)年10月に中野区が誕生したと同時に区内に60ヵ所の町と共に千代田町も設置され、千代田町会(町会長・先代清水吉右衛門)も発足した。
 戦後昭和22(1947)年5月に政令15号により町会は解散したが、のちに昭和27(1952)年4月法律18号により町会の復活が認められると同年10月には千代田町会(町会長藤野隆助)として活動を展開した。
 その後昭和42(1967)年に新住居表示の施行により本町五丁目となったが、町会員の総意により伝統のある千代田町会とした。
 現在地域世帯数は 2267(防災士リーダ資料より)・会員世帯数は 593(約 26.16 %)

神田川による水害の町

 戦後の昭和33(1958)年9月以降、台風・集中豪雨で神田川氾濫による水害は14件に及び、町内の半数に及ぶ壱千世帯が水害の苦渋を味わされてきた。昨今中野新橋下流の河川拡幅・環七地下調整池の完成により整備事業は進捗したが、小規模とはいえその後の水害発生もあり、未だ住民の不安は解消していない。根本解決となる神田川・善福寺川合流点までの河川拡幅の早期完成を待つ。

町の変遷

 昭和30(1955)年代には町内の中野新橋三業地の火も消え、飲食店・商店も極めて少なく、企業関係も僅か数社に過ぎない。町は中野新橋・中野富士見町の両駅にまたがる便利さによりマンション建設が増加し、町の様変わりが進み、景観と共に住民意識も変化してきた。
 町の中心には区立第二中学校があり、二中の第二校庭は町会行事に開放され、町民のふれあいの場として利用されている。
  (追記)ただ今は二中本校庭を学校行事のある場合を除き毎土曜日の午後1:00~5:00までグラウンドゴルフ(GG)に使用させてもらっている。
 また平成22(2010)年4月から隣地のNTT住宅跡地の広大な広場が本町5丁目公園として暫定整備され、平成28(2016)年3月19日「本五ふれあい公園」として開園し、一躍緑地環境抜群の町会に変貌した。町の北側に位置する地域活動センターも住民の活動拠点となっている。

主な行事

 町会発足以来会員相互の親睦を図り「皆で築こう、住みよい街を、楽しい町を」を目標にして次のような活動を行っている。
毎月第三土曜日の定例役員会、春・秋の火災予防運動、交通安全運動、毎月2~3回の防犯パトロールと町内一斉清掃、歳末特別警戒パトロール。
 地域防災会は毎月第4土曜日を防災デーとし防災機器の点検・始動、街頭消火器の一斉点検(5月・11月)等を行っており、軽可搬ポンプ操法大会では連続して入賞している。
毎月最終火曜日に町内にある身障者施設「ふらっと」の避難訓練等に立ち会っている。
なお、お花見・バス旅行・納涼会・餅つき大会・新年会・秋の祭礼・敬老の日の長寿祝い品贈呈などを行っている。

町名の由来

 町会の南側を流れている神田川はその昔、蛍の群生地であった。夏ともなるとあたり一面に群舞していて、それを若者たちが捕って千代田の皇居・二重橋まで持って行って放していた。町名を決める際に、当時の若者が町の重鎮となっておりホタルの想い出から千代田と名付けたと伝聞されている。


トップへ